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Women at Work !  4


秘書の高野と共に取引先から帰社すると、ロビーで見慣れない光景に出くわした。
スーツの集団の中に、一人だけ作業服にスニーカー姿。しかも、長い三つ編みの髪の毛が1本、背中に下がっている。側を通る人々も、少し遠巻きにしながら見ているような感じだ。
このビルには朝倉建設も入っているから作業服姿を全く見ないわけではないが、こんな風に明らかに「現場帰り」のいでたちでロビーに立ち尽くす者は珍しい。しかも背中に垂らした三つ編みが妙なアクセントになっていて、そのアンバランスさに思わず目が行ってしまう。
その、どこかで見かけたような後姿に、大地は思わず声を掛けてしまった。

「君、巽さん…巽陽南子さんじゃないか?」

振り返った彼女は驚いた表情でこちらを見たが、すぐに歩み寄ってきた。
そして後ろにいた高野に気付くと軽く会釈をする。
「朝倉社長、いいところへ。まさに渡りに舟だ」
彼女はそう言うと前と同じ、爽やかで、快活で、そしてあの時より少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「何かあったのか?」
視察の後、彼女には何かあったらすぐに申し出るように言っておいた。
普通ならば下請けの社員にこんなことを言うべきことではないのだが、彼女と稲武のやり取りが妙に彼の心に引っかかっていたせいだ。
「いえ、そっちの方は今のところは。あの、それとは全く関係なく、お話したいことがあるのですが…ちょっとだけお時間をいただけませんか?5分、いえ、3分でもよいので」
彼女は幾分警戒した面持ちで周囲を見回すと、少し声を潜めた。まるで誰かの目を気にするように。
その様子に、大地は後ろの高野を振り返ると二、三の問答の後、小声で何事かを指示した。

「分かった。話を聞こう。こちらに来たまえ」



陽南子が通されたのは、このビルの最上階、役員室が並ぶ豪勢なフロアーの応接だった。
「少し待っていてもらえるかな。先に急ぎの用事を済ませてくるから」
大地はそういい残し、部屋を後にした。
すぐに先ほど大地と一緒にいた男性がコーヒーを運んで来たので恐縮しながら頭を下げた。しかし当の本人である大地はなかなか現れなかった。
出されたコーヒーを口にしながら、陽南子は少し後悔し始めていた。
何の証拠もない話に、多忙な朝倉社長を付き合わせてよかったのだろうか。
それ以前の問題として、もし彼が稲武と同じように面倒を嫌う人だったとしたら、まったくお門違いの相手に問題を持ってきてしまったことになる。


たっぷり1時間は待たされた頃、ようやく応接室に大地が現れた。
周囲はとっくに夕闇を過ぎ、窓の外はすでに街の照明やネオンが瞬くようになっている。陽南子は高層階からの美しい夜景を見下ろしながら、窓際に佇んでいた。

「お待たせしたね。ちょっと急な電話が入ったせいで遅くなった」
「いえ、こちらこそ。勝手に押しかけてしまってすみませんでした」
最後に一度、名残惜しそうに窓の外を眺めると、陽南子はソファーへと戻った。

「高所は苦手ではない?ここまで高いと時々嫌がる客もいるんだがね」
それを聞いた陽南子は思わず声を出して笑った。
「朝倉社長、それを言ってたら現場は務まりませんよ」
「怖くはないのか?」
「全然。ましてやとび職なんて、地上より空中にいることの方が多いくらいだから。もっとも私は上には上げてもらえないけれどね」
彼女はそう言うと苦笑いを浮かべながら肩を竦めた。いつもの「笑い」とは違う、どこか哀しげな笑みなのが気になる。
「それより本題。まず話を聞いていただけますか?」

陽南子は職人からの質問や図面との照合、それでも何か納得できない状況をかいつまんで話した。
「杞憂だとは思うんです。でも、もし万が一にも図面に何だかの問題があったとしたら、完成してからだとかなりの損失を被ることになりかねない。今のうちにできるだけそういった疑念は無くしておいた方が良いと思って」

確かに今の時点ならば、何かあってもすぐに対処できる。もし何か不手際が見つかり、たとえ一時的に工事を止めたとしても、金銭的に無傷とはいかないが数ヶ月もあれば復旧できる。だが完成した後に、ましてや住居やテナント、オフィスの入所が始まってから不備が発覚した場合、その損失は会社の存続を揺るがすほどの莫大なものになりかねない。
だが会社を動かすにはまた何か、それなりの動機付けが必要だった。

「何か根拠になるようなものはあるのか?」
大地の問いに、彼女は俯いて首を振った。
「ないです、何も。目に見えてこうだというものは。ただ、熟練の職人の進言を無視することは、私にはできない。無理を言っているのは承知の上で、とにかく、もう一度設計図を確認するだけでもやってみてもらえないかと思って。それで何も問題がなければ、こちらも安心して作業が続けられる」


たかが職人の戯言と言ってしまえばそれまでだが、陽南子の言葉には聞き流してしまうことのできない焦思のようなものが感じられた。
ミューズ・シティは、朝倉建設が今まで手がけてきたものの中でもかなり開発規模が大きく、何より桁違いの資金をつぎ込んでいる。文字通り社運をかけた一大プロジェクトだ。
だからこそ、些細な疑念が入る余地はないし、どんな小さなミスも許されない。
大地も勿論、そのことは重々承知していた。

「分かった。一度こっちの設計部にチェックさせよう。工事自体を止めることはできないが、それでいいか?」
その言葉に、俯いていた彼女ははっとしたように顔を上げた。
「あ、ありがとうございます」
陽南子は徐に立ち上がると深々とお辞儀をした。
施工主である朝倉建設の社長に了解が取れたのだから、取りあえずは一安心だ。ここでも軽くあしらわれることを覚悟していただけに、意見を聞き入れてもらえたことが、彼女には何より嬉しかったし、正直ほっとした。

「では、私はこれで。お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」
そのままくるりと踵を返し、ドアのほうへと向かった彼女を大地が呼び止めた。
「巽さん」
何事かとこちらに向き直った彼女は、次の大地の言葉に目を丸くした。
「これから時間があったら、どこか食事にでも行かないか?」
「え?あなたとですか?」
「他に誰がいる?」
「忙しいんじゃなかったんですか?」
「だからさきに用事を全部済ませてきた」
実際は秘書の高野と、ちょうど社内にいた弟に仕事を押し付けてきたのだが。

「でも…」
陽南子は自分の姿を見下ろした。汚れた作業服にスニーカー。手にはいつも現場に持って行っているデイパック。ここに入るだけでも、この格好に躊躇したのに。
「気にすることはないさ。個室を取ればいい」
この男、本気でそんなことを言っているのかと疑ってしまう。仮にも大会社の社長が行くような店に、こんな格好で入れてもらえるとは思えなかった。

「それならば、私が場所を指定しても構わないかな?そこなら一緒に行けるから」
暫く考えた後、陽南子は逆に大地を誘い返してきた。
「どこか良い場所でもあるのか?」
彼の問いに、彼女は大地がはっとする、いつものあの笑顔でこう答えた。

「ええ。じゃぁ、行きましょうか。取って置きのお店を紹介するから」




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